[さいごのかぎ]Townmemoryの研究ノート

創作物から得た着想を書き留めておくノートです。現在はTYPE-MOONを集中的に取り上げています。以前はうみねこのなく頃にを研究していました。

【過去投稿サルベージ】バッドウィッチ・ローザに花束を

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●再掲にあたっての筆者注

 このブログは、「うみねこ公式掲示板」に投稿した記事の再掲をメインコンテンツにしていますが、掲示板に投稿したものの、ブログには採録しなかった文章がいくつかあります。
 それらの多くは、ブログに保存するまでもないなと(当時)思えたものや、あるいは特定の人に向けたリプライ記事で、文脈がないと理解しにくいものです。

 そういうものの中から、いくつか閲覧の意義がありそうなものを拾ってきて掲示することにします。

 世間話のパートなど、ノイズになりそうな部分をカットし、文脈が必要なものは注釈を書き加えます。今回は楼座関連の記事を2つほど拾ってきました。



  ×  ×  ×



■楼座さんと霧江さんの対比
 筆者-初出●Townmemory -(2010/04/28(Wed) 04:45:29)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=45616&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]

●再掲にあたっての筆者注
 Ep6当時の記事です。
「右代宮霧江とシンパシー・フォー・ザ・デビル」 「補遺・右代宮霧江とシンパシー・フォー・ザ・デビル」の関連エントリです。
 これを読んだ方が、「霧江が真里亞に優しいのは、右代宮家に入ってから日が浅いので、そのぶん感性が一般的だからではないか」とご意見をくださいました。それに対するリプライです。

 以下、本文です。

     ☆

 こんにちは。話に混ざれそうなところだけ、いくつか触れますね。

「霧江が優しいのは多分一般的な感性を残しているから」というお話ですが、わたしは、「9歳にもなって魔女とか魔法とか本気で信じているのは、おかしくて恥ずかしい」という楼座の感覚のほうが、一般的だと思います。

「いい年してアニメだか漫画だかに夢中になって」という見方のほうが、わたしたちのいまの時代でも、まだ一般的だと思います。(だいぶん、そのへんは許容されてきていますけれどね)それに近いお話なのかもしれない。
 伝聞した話ですけれど、今から二十数年前の1986年のころは、「いい年をしてアニメを見ている」といったことが、まだ充分にうしろめたかった時代だと思います。
 都会か田舎かにもよるのでしょうが、そういうのは、ハタから見れば充分に「異常」といえたのかもしれない。今とくらべて、まだ世間の雰囲気は画一的で、多様性の許容度はきっと低かったような気がします。そういう雰囲気を加味すると、楼座の感覚のほうがわりあい標準的で、(この推理での)霧江はちょっと異様に理解がある人っていう感じになると思います。

 あー、そういう社会的な雰囲気の中で、それでも「ありえない趣味」に没頭する人(と、はみだした人間を叩く人々)というのは、充分に
「魔女と魔女狩り」
 の見立てができちゃいますね。

 邪推的なところに入ってきますけれど、竜騎士07さんはアニメ、漫画、ゲームといった、明らかなサブカルオタクジャンルから出てきた人で、ひょっとしたら子供のころから、そういう非・一般的な、真里亞的な立場に立ってきた人なのかしら。

 だから、「はみだした人間への、根本的な優しさ」が、作品にいっぱい入っている……。
 みたいなことを言い出すと、ちょっと微妙なことになってきますね。うーん。


 その他のことについては、わかりかねました。ごめんなさい。

  ×  ×  ×

■バッドウィッチ・ローザに花束を
 筆者-初出●Townmemory (2009/12/03(Thu) 02:40:28)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=36534&no=0 (ミラー
 Ep5当時に執筆されました]

●再掲にあたっての筆者注
 これはEp5当時の記事です。
「【カケラ紡ぎ】六軒島の惨劇を起こさない方法」の関連エントリとなります。その記事の内容に関して「それは楼座・真里亞母子間の根本的な問題解決にならないのではないか」という指摘があり、そのやりとりの中から出てきた、「わたしの楼座観」です。

 現実的にいえば、楼座と真里亞のような母娘の問題を解決する方法は、ありません。できるのは、時間が経つのを待つことだけです。真里亞が大きくなり、強くなり、楼座に依存しなくても生きていけるようになる(精神的にも)ようになるのを待つ以外に、具体的方法はありません。真里亞が、楼座の愛を必要とせずに生きていけるようになるしかないのです。
 あの歳になってから、楼座が精神的に成長することは見込めないのです。だから真里亞が成長するしかないのです。彼女にはきつい話なのですが。(パーカーの『初秋』の名台詞みたいですね)

 以下が本文です。

     ☆

 以下、ついでに連想ゲーム的に、楼座さん観のことをおもいついたので、独り言的に少し。

 楼座と真里亞のあいだにある問題は、この物語はフィクションですから作品中では理想的な解決が描かれるかもしれませんが(Ep2はそれに近いですが)、現実に即していえば、根本的な解決はないというのがわたしの見方です。
 あれはわたしは、ボタンのかけちがいというレベルのものとは見ないな。
 楼座さんは、「真里亞のママ」であると同時に、「しあわせになりたいひとりの女の子」という側面もあります。
「真里亞のママ」のときは、真里亞をいたわり、やさしくしますが、「しあわせになりたい女の子」のときには、真里亞をじゃけんにし、ほとんど憎みます。それが交互にあらわれるのが楼座という人で、一方のメーターが限界まで振れると他方にスイッチする。わたしはそんな感じでみています。

 でも、楼座にふたつの面があるとしても、真里亞にとっては楼座は「真里亞のママ」であるだけです。真里亞がもとめているのは、楼座に「真里亞のママ」の側面だけの人になってもらいたいということです。
 それは楼座には無理だ、というのが、わたしの見方です。自分自身を構成するものの半分をあきらめろ、というのにひとしいですからね。

 楼座が、愛されたい、優しくされたい、幸せになりたいと脅迫的なまでに思うのは、幼少期からの環境に起因することで、それは、ちょっと考え方が変わった、ものの見方が新しくなった、という程度では、改善されないんじゃないかな、という気がしています。

 よくある言い方だけれど、楼座さんは自分が愛されて育った、いたわられ守られて育ったという実感がないんだと思います。だから、子供を持った今でも、それを求めつづける貪欲さを止められないし、真里亞にそれをうまく与えることもできない。

 真里亞を愛してないわけじゃないんだけれど、それはそれとして、自分だって誰かに深く愛されたいし、しあわせになりたい。そのためには、現実的に真里亞はじゃまになってしまう。そんなコンフリクトを内包しているのが楼座さんで、極論すれば、最終的な処方箋は、「楼座が、真里亞ひとりから受ける愛で満足して、その他の愛の願望は段階的にあきらめていく」というかたちになっていかざるをえないと思います。極論すればね。

 でも、それは、楼座さんがかわいそうかな。と、ちょっと思います。

 楼座さんに罪がある、とは、わたしは思っていなくて、彼女は真里亞の母であるまえに、不完全なひとりの人間なんだという、ごくあたりまえのことでしかないと思います。それを罪に問うのなら、人間全員が罪人だと思う。楼座さんが自分の不完全さとうまくつきあっていけるようになるといいな、とわたしは願っていますけれど、それは楼座さんが自分で自分を動かすしかなくて、その能力は外から誰かが与えられません……。

 そういうフィーリングです。

 そういえば、ニコニコ動画で、戦人が楼座と結婚して真里亞のパパになるというすごいギャグテイストのオリスクをみました。ものすごく笑ったけれど、あれは幸せのカケラ紡ぎとしては、わたしはかなり本気で素晴らしいと思いました。そういうカケラを紡いでもぜんぜん良い。あれはどれだったかなあ。

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